仏事とは何?仏教における本当の意味を僧侶がわかりやすく解説

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「仏事」とは何?

「仏事(ぶつじ)」と聞くと、お葬式や四十九日、一周忌、三回忌など、亡くなった方のために行う法要を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

しかし、「仏事」という言葉は、本来、お葬式や法事だけを意味する言葉ではありません。

もともと仏事とは、仏さま(ブッダ)が人々に教えを説き導く活動や、その修行を意味する言葉でした。

その後、中国では、法要を営む仏教行事を「仏事」と呼ぶようになります。

日本でも古くから、亡くなった方への追善供養だけでなく、国家の安泰を願うこと、仏像を造ること、仏塔やお墓を建立すること、仏さまを供養すること、僧侶に布施をすることなど、さまざまな仏教の行いを「仏事」と呼んできました。

そして現在では、一般に、

お葬式、四十九日、百か日、一周忌、三回忌などの法要

を指して、「仏事」という言葉が使われています。

このように、「仏事」という言葉が指すものは、時代とともに変化してきました。

しかし、その根本にある仏教の意味まで失われたわけではありません。

本来の「仏事」には、仏の教えと、それを実践することという意味があります。

天台宗の「顕教」と「密教」とは?

ここまで見てきたように、本来の「仏事」には、仏の教えと、それを実践することという意味があります。

では、その「仏の教え」と「実践」は、天台宗ではどのように考えられているのでしょうか。

天台宗では、仏さまの教えを大きく「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」の二つに分けて考えます。

そして、それぞれの教えに基づいて、さまざまな法要儀礼が行われています。

顕教

顕教とは、仏さまが人々の性質に応じて、理解しやすいように言葉や文字を用いて説いた教えです。

顕教にもとづく法要では、お経を読誦(どくじゅ)することで仏さまの教えをあらためて心に刻み、日頃犯した過ちを懺悔(さんげ)したりします。

そして、仏教徒として正しい日常生活を実践していくことを目指します。

密教

一方、密教は、仏さまと自分とが一体であることを念じ、仏さまの力によって仏の境地に達しようとする教えです。

密教にもとづく法要では、加持(かじ)や祈祷(きとう)が中心となります。

加持とは、仏さまや菩薩の力が私たちに加わり、仏さま・菩薩と私たちとが互いに通じ合うことを意味します。

このように、顕教と密教では教えや法要の方法に違いがあります。

どちらも大切

しかし、天台宗では、どちらも大切にします。

それが、仏さまを供養することと、仏になる可能性をもった私たち自身の心を開いていくことです。

私たちの中には「仏さま」がいる?――仏性とは

天台宗では、仏さまを供養するだけではなく、私たち自身の中にある「仏性(ぶっしょう)」に気づくことを大切にします。

では、「仏性」とはいったい何なのでしょうか。

『涅槃経』――すべての人には仏性がある

『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経には、

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

という有名な言葉があります。

「一切衆生」とは、すべての生きもの、「悉有」とは、すべて持っているという意味です。

つまり、「すべての生きものには、仏となる本性(本質)である『仏性』が備わっている」という意味です。

しかし、私たちは普段、自分自身に仏性が備わっていることをほとんど意識していません。

日常生活の中でさまざまなことに迷い、ときには悪い行いをしてしまい、仏さまとは反対の方向へ進んでしまうこともあります。

けれども、それによって仏性そのものがなくなってしまうわけではありません。

自分自身の本来の姿に気づき、それを求めていくならば、私たちの中には仏となる可能性がある。

天台宗では、このように私たちと仏さまとの関係を考えます。

つまり、迷いや煩悩によって見えなくなっている、本来の清らかな自分に気づいていくということですね。

『法華経』常不軽菩薩品――なぜすべての人を礼拝するの?

この「すべての人には仏性がある」という考え方を、とても分かりやすく表しているのが、『法華経(ほけきょう)』に登場する常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)です。

常不軽菩薩は、どのような人に出会っても、その人を決して軽んじることなく礼拝(お辞儀を)しました。

そして、

「私は決してあなた方を軽んじません。皆さんも必ず仏になることができるのですから」

という思いをもって、人々を礼拝したと説かれています。

つまり、「常(つね)」に誰も「軽んじない(不軽)」という意味ですね。

では、なぜ常不軽菩薩は、どのような人に対してもこのような態度をとったのでしょうか。

それは、どのような人にも仏となる本質(本性)、つまり「仏性」が備わっていると考えたからです。

たとえ今は悪い行いをしていたり、仏教とはまったく縁がないように見えたりする人であっても、その人の中から仏性がなくなったわけではありません。

いつか仏の道に入り、菩薩の道を実践し、仏になる可能性をもっているのです。

だからこそ常不軽菩薩は、目の前にいる人の現在の姿だけを見るのではなく、その人の中にある「仏という本質」を見て、すべての人を尊敬し、礼拝したのです。

そして、この考え方は天台宗の仏事や法要にもつながっています。

天台宗の法要は、仏さまを供養するだけではありません。私たち自身の中にある清らかな仏性に気づき、「本当の自分」を見つめていくことも、大切な意味の一つなのです。

葬儀も、その例外ではありません。

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この記事を書いた人

はじめまして。木村整民です。
天台宗の僧侶・仏教学研究者として、インド仏教や日本仏教を研究しています。
Buddha AIでは、仏教を分かりやすく伝える記事や、AIを活用した仏教学習・翻訳・チャットボットの開発について発信しています。

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